我々は『おなじ』を忘れてしまったのか (哲学)

久しぶりに哲学っぽいことを書こうと思います。

同じという概念の本質は、我々には認識できないんじゃないかということを言います。

 

この議論は、一昨年の秋に大学でWestern philosophyをとっていた時に、本を読んでいて思いついたものなのですが、なかなかに面白い考察だと思うので、できればコメントしていただいてより発展した知恵にしていきたいと考えています。よろしくお願いします。

 

 

まず、”おなじ”について考える前に、私が大いに参考にした(ほとんどパクリといっても差し支えない)永井均さんの『倫理とは何か』における社会契約のマジックについて理解してもらいたい。

以下の文で、社会契約がなされた理由が分からなくなるという議論をもとに、社会契約が自己目的化しているということを示します。この考え方で”おなじ”を考察します。

 

 

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〇社会契約後の人間には社会契約がなされた本質的な理由は決して分からない。

 

永井さんは、社会契約前の人間を自然状態であると仮定しています。この場合、人間同士は自分の利益を優先し、闘争は免れないといいます。

逆に、社会契約後の人間は、理性的であり、少なくとも自分を「だれも」の一人だと認識しているものと考えます。

「だれも」について非常に分かりにくいので自分なりにもう少し説明します。

囚人のジレンマで2人が自白するには、この「だれも」の概念が必要不可欠だといいます。なぜなら自然状態で「だれも」の概念が芽生えていないなら、囚人は自分が益になる方を選択するからです。たとえ、両方が自白しないことよりも、両方が自白することが囚人にとって結果良い事だとしても、囚人は自白せず、「自分は自分にとって、利益となる最善の結果をとった。」というはずであり、そもそも両方自白するという行為は相方が自分と同じ「だれも」の一員であるときしか成功しないのです。

 

で、社会契約の本当の理由が分からない理由は、社会契約後の我々が既にだれもの一部であることを認め、囚人のジレンマの考え方のように、ほかの理性的な誰かを ”想像できる” 限りにおいて、決して理性的なだれかを ”想像できない”” 社会契約まえの立場になることはできないから、だそうです。

こうした理性的な人間が想像できず、他の人間が自分と同じ「だれも」ではなかった場合、その人たちが社会契約を要請した本当の理由、実際なされた瞬間というのは、決して理解することはできないのでしょう。

 

 

 

〇社会契約の自己目的化

 

そうすると、我々が見ている社会契約が成った理由というのは、何らかのマジックによって、社会契約前の理由から社会契約後の理由にすり替わったあとだということになります。

そしてこれが、社会契約の肝である、「社会契約の理由を求めると、すでに社会契約において理想的な人間が想定されており、もともとの理由が消えてしまう」という自己目的化だと永井さんはいいます。(多分そうだと思う)

 

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めちゃくちゃ面白いでしょ??伝わってるかどうか分からないけど本物は100倍面白いので是非みんなに買ってほしいですね。まぁそれは置いておいて、

 

ここから”おなじ”の話に入っていきます。

全く上と同じ議論をするのですが、

 

 

Premise 1  同じという概念は、同じという概念なしでは説明できない。(同じであることは自己目的化してしまう)

 

(Premise 1 の backing(補足) 同じという言葉はある対象を指定する言葉であり、”同じ”という概念の外側に立てないかぎり、対象を指定しない言語(同じの本質的意味)に直すことができない。)

 

Premise 2  自己目的化した(ループした)概念において、そこにあったはずの本質的な要請(意味)は忘れ去られなければならない。

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Conclusion  同じという概念が自己目的化しているならば、私たちはそこにあったはずの要請(意味)を思い起こすことができない。

 

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Thesis   同じの本質的な意味は我々には考えられない。

 

ということになります。

 

順を追ってpremise1,2に理由をつけていきましょう。backingは本論を追うのにあまり必要ないので最後にやります。

 

 

 

 

 

Premise 1  

同じという概念は、同じという概念なしでは説明できない。(同じであることは自己目的化してしまう)

 

”同じ”であるという概念は、我々の言語体系に、もしくは認識に、とても深くかかわっています。

例えば私が、AはBである。と述べた場合、この文は、AはBと同じである。と言い直すことができます。

もう少し、詳しく見ていきます。同じの対象が物である場合と概念である場合です。

 

同じの対象が物である場合、AがBである状況とはいったい何でしょうか。

まず考えられるのは、AがBと完全にidentical、つまり同一であるという場合です。

これは明らかに、『AがBである⇒AがBと同じである』が成り立ちます。

また、AとBは完全に一緒ではないが、ある特徴をどちらも有している状況、例えば既製品が並べられた状況も考えられるでしょう。

この場合は、『AがBである』は『Aの部分的な特徴(a1, a2, a3...) がBの部分的な特徴(b1, b2, b3...) と同じである』ということができます。

 

では概念のときはどうなるでしょう。

少し難しいので、例をあげて考えてみます。

Wikipediaから資本主義について引用してみます。

”資本制は、営利目的の個人的所有者によって商業産業が制御されている、経済的・政治システム”

 だと書いてあります。

これは、『資本制』が『営利目的の個人的所有者によって商業産業が制御されている、経済的・政治システム』と同じである、もしくは資本制の部分的な特徴が後者の部分的な特徴と同じである。と言えます。

 

このように、”おなじ”という言葉は、論理学的な命題の中に含まれてしまっているのです。

 

そうすると、”おなじ”という概念を説明しようとするときに、大変なことが起きます。

そう、循環するのです。

AがBである。はうえの部分的の議論も含めた視野で、AがBと同じである。と変換することができるので、”おなじ”がBとおなじである。というちょっとバカみたいな文になってしまいます。

backingで書くのですが、これを解消するには”おなじ”という言葉を他のものに言及しない形に変換する必要があるとおもいます。

なんにせよ、同じという概念は今のところ、同じという概念なしでは説明できないのでしょう。

 

 

 

 

 

Premise 2

自己目的化した(ループした)概念において、そこにあったはずの本質的な要請(意味)は忘れ去られなければならない。

 

これはそっくりそのまま永井さんの主張を輸入する。一般にも示せると思うが、

”同じ”をある自己言及する概念に置き換えるだけでよいので、ここでは、『同じのいみが自己目的化している我々にとって、”同じ”の本質的な意味は忘れ去られていなければならない』ことを示します。

 

我々は、”おなじ”という概念がない世界から”おなじ”という概念がある世界を想像できます。そうすれば、その”同じ”がなかった世界において、何かしらの要請があって、”???(同じ)”が”同じ”に変化するということがあったことになります。

もちろん、同じという概念がアプリオリで、先天的に獲得しているものだと考えることもできるでしょう。しかし、それは決して”おなじ”という概念の説明にはなりません。

先天的であれ後天的であれ科学的考察であれ、”おなじ”を説明するには必ず”おなじ”を我々は使ってしまうのです。

”おなじ”という概念がない世界を想像できる限りにおいて、我々はそこに”おなじ”という概念の発生を見出さねばならないのです。

自己目的を解消し得る回答、もしくは自己目的を解消できないという回答でなければ、その反論は哲学的に全く無意味なのです。

 

 

では、”おなじ”がない世界から、ある世界へ移行したときに、本質的な意味は忘れ去られなければいけないのでしょうか?

”おなじ”世界のこの構造は、永井さんの社会契約の議論の構造と似ています。

 

囚人のジレンマの考え方のように、ほかの理性的な誰かを ”想像できる” 限りにおいて、決して理性的なだれかを ”想像できない”” 社会契約まえの立場になることはできないから”

 

これは”おなじ”の概念のあるなしでも同様に、

 

”おなじ”のない世界で、ほかの”おなじ”と本質的に”おなじ”意味の言葉があると考える限りにおいて、決して”おなじ”という概念が存在しない、”おなじ”誕生まえの立場になることはできないから

 

と言い換えることができます。

 

”おなじ”の概念がぐるぐる自己目的化している我々には、誕生前の立場に立って、本質的な意味合いにアクセスすることはできないのです。

 

 

 

 

 

 

 

これがこの文章の言いたいことです。

”おなじ”という概念が私たちには本質的にもう分からないものになってしまっている。

これがもし正しいのなら、私たちが積み上げてきた命題という論理学体形は非常にもろいものになってしまいます。なにせ、論理の中核である”おなじ”で表される比較が本質的には我々には分からなくなってしまっているのですから。

めっちゃ面白くないですか??

これを一年のときに思いついて、めちゃくちゃテンションが上がったのを覚えています。思考の根幹を揺るがす新しい見方ができたんじゃないかと。

まぁ、もしかしたらもうすでに自明の事実なのかもしれないですし、論理的に誤謬があるかもしれないので、みんなに見せて磨いていきたいと思います。

ここまで見てくださった方がもしおりましたら、反論や補強をしていただけると嬉しいです。とくに、自己言及のパラドクスと、非常に深い関りがあると思うので、そこら辺に詳しい方だと有難いと思います。分りにくいわボケっていう質問も嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、最後にBacking(補足)を書いて終わりたいと思います。

Baking   同じという言葉はある対象を指定する言葉であり、”同じ”という概念の外側に立てないかぎり、対象を指定しない言語(同じの本質的意味)に直すことができない。

 

 

Premise 1 で”おなじ”を今の論理体系で説明しようとすると、自己言及してしまうことを示しました。

これは、自己言及のパラドクスと非常に似た構造で、自己言及の原因には、その”おなじ”という言葉自体が、自己言及もしくは他己言及を含んでいるからなのです。

 

誰が考えたのかは分からないのですが、文章に階層を設けて、自己言及を回避する方法があります。

Level.0 = 自己言及・他己言及しない文章

Level.1 = Level.0を言及している文章

Level.2 = Level.1を言及している文章

...

 

これをふまえて、”おなじ”がの意味を”おなじ”に遡及しないためには、

意味的に閉じた言語を意味的に開いた言語(Level.0)に変換すればいいのではないでしょうか。

ちょうど『消しゴムがある』を言及する『消しゴムあるということはない』を『消しゴムがない』に変換するようなものです。

 

全てのパラドクスを孕む言語に対してこの変換ができるかどうかは、この記事では問題ではありません。

”おなじである”を開いた言語に変えられるかが問題なのです。

 

多分、もう私の言いたいことはここまで読んでくださった方には分かると思いますが、

”おなじ”を開いた言語に変換するには、”おなじ”という概念がない世界にいなきゃならないのです。なぜなら、私たちは、”おなじ”という概念のない世界からある世界に移行するときに、その開かれた意味を忘れ、閉じてしまうことによって、”おなじ”を自己目的化したからです。

つまり私たちが同じという概念の内側にいる限りにおいて、開かれた言語に変換するのは不可能なのではないでしょうか。

だから、Premise 1 の最後のほうに書いた、、おなじはBとおなじである。は、”おなじ”成立以前の立場にならない限り、おなじをおなじという意味で説明するという、ループに陥ってしまいます。

 

最後蛇足っぽいですが以上になります。